18


 ゆうきは傘を真っ直ぐ持ち直した。歩くたびに雨水が靴の中で音を立てる。靴下はすでにびしょ濡れだった。
 ひっそりとした商店街を抜け、ドラッグストアの角を曲がる。するとようやく、木造二階建てアパート、山月荘が見えてきた。ゆうきは手提げバッグを握り締め、山月荘を見上げる。壁面にはヒビが入り、二階へと続く細い階段は、音を立てて揺れていた。風が強いのは、近づいている台風九号の影響だろう。ゆうきが敢えてこの日を選んだのは、なるべく誰にも見られず、ここへ来るためだった。思惑通り、雨傘で隠れた自分を、誰も注意して見ようとはしない。
 階段を慎重に登り、目的の二〇二号室のインターホンを押そうとした時、背後から声がした。
「八神くん?」
 驚いて振り向くと、アパートの下に、スーツ姿の野葉レイが立っていた。ビニール傘越しにこちらを見上げてくるレイに、八神は慌てて頭を下げる。どうやら、ちょうど仕事から帰ってきたようだ。
 階段を上ってこちらへとやってきた彼に、中へと招かれた。
「どうしたんだい、こんな遅くに。家の人が心配するだろう?」
「いえ、大丈夫です」
 むしろ居ない方が喜んでくれますから、とは言えなかった。伯父や伯母は表面上こそ優しいが、確実に避けられていた。目を合わせることすら、数えるほどだ。
 レイはスーツ姿のまま、食器棚を開け、コンロのやかんに火を点ける。
「ちょっと待っててね、今お茶出すから」
「あ、いえ。これ、返しに来ただけですから」
「そんなこと言わないでさ。お茶ぐらい飲んでよ。この天気なんだしさ、ついでに車で送るから」
 そう言いながらも、2つの湯呑みに湯を注ぐ手は止めない。湯呑みを持ってこちらにやって来たレイに、ゆうきは慌てて手提げバッグを差し出した。長居をするつもりはない。車で送られたら、伯母さんに言い訳をしないといけなくなる。伯母さんをあまり困らせたくない。あの人たちに見捨てられたら、生きていけない。
「あの、これ。この前、貸してもらったんで。寝巻き」
「あ、うん。ありがとう。別にあげても良かったのに」
「そんなわけにはいきません」
「律儀だね」
 レイが笑う。人好きのする笑みに、やっぱりこの人は変な人だ、と思う。
「それと、あの……」
「利央は帰ってきてないよ」
 聞く前にきっぱりと言い切られてしまう。どうやら、レイにはわかっていたようだ。苦笑しながら「ごめんね」と続けるレイに、ゆうきは首を振る。
「いえ、予想はしてましたから」
 ゆうきが最後にノバを見てから、約一週間。ゆうきにとっては特に何の進展もなく、ただ日々が過ぎていた。変わったことといえば、住職のような男に命を狙われる夢を見ることと、旭が最近やたらしつこく絡んでくることぐらいだろうか。
 レイは湯呑みを差し出した。
「すみません。そんなつもりじゃなかったのに」
「子供が遠慮なんかするなよ」
 レイはそう言ってゆうきの頭をポンポンと撫でた。何だか子供扱いされているようでむず痒い。湯気の立つ湯呑みを啜ると、身体の芯からじんわりと温まっていく。このまま、ずっとこうしてお茶を飲んで談笑していたい、と思う。だからこそ、長居する気はなかった。優しくされることに慣れてしまいそうで、怖かった。
「俺、帰ります。お茶どうも。あと、寝巻きもありがとうございました」
 軽く会釈をし、ゆうきは立ち上がった。八神くん、と声がかかるが、聞こえないふりをする。さっさと帰ろう。帰って、数学の宿題をして、シャワーを浴びて、寝てしまおう。そうすれば、今日のことなんてすぐに忘れてしまうだろう。
 そんなことを考えながら玄関の靴を履いていたところで、ふと違和感に気づく。左目が熱を持ち、眼帯の奥で蠢いていた。
 心臓の鼓動に呼応して、目玉が動く。
 嫌な感覚だった。
「八神くん?」
 急に立ち止まったゆうきにレイが近づく。レイの背後を見て、ゆうきは目を疑った。
 窓の外から、二つの目玉がじっとこちらを見つめている。窓の向こうには、隣り合う建物も無かったはずだった。ましてやアパートの二階の窓であるため、足場も無い。そんな状況であるにも関わらず、窓の外には誰かがいる。
 ゆうきと視線が合うと、その目は細くなった。隠れていた口元が弧を描き、白い歯が覗く。その笑みに、肌が粟立った。とっさにレイの腕を引っ張り、引き寄せる。
「八神くん、一体何を……」
「レイさん、こっちに来て」
 心臓の鼓動が早くなる。
 人ではない。確信した。
 窓の向こうの誰かが、口を開く。
ーーみ、つ、け、た。
 そう言って、にやりと笑う。窓のロックが、誰も触れていないのに解除される。窓が少しだけ開き、雨風と共に黒い男が降り立つ。その格好を見て、ゆうきは目を見開いた。
 黒い袈裟掛けに、頭に被った笠。そして黒く長い髪には、見覚えがあった。
「ちょっと、何なんだあんた!」
 背後でレイが困惑したような声を上げる。男の足元は、不思議と濡れていなかった。
 目深に被った笠の隙間から、大きな目玉がこちらを見る。そして、男は笑みを深くした。刺すような視線に、ゆうきは唾を飲みこんだ。身体を動かすことすら許されなかった。それでも今なら、まだ間に合うかもしれない。レイさんの手を取って、後ろの玄関から逃げ出せば、まだ何とかなる。
 逃げろ、と脳内で指令が出る。足を動かせ。ドアを開けて、思い切り走れ。
 それでも、身体は動かない。手足の震えが止まらず、ゆうきは唇を強く噛み締めた。
「よう、クソガキ」男は笑っている。「欲しいものはあるか」
 もう何度も聞いた台詞だった。夢の中で出会った男が、今、目の前で笑っている。
「聞いてんのかコラ。なら、その命もらうぞ」
ーーならば、その命もらっていこうか。
 そうだ。こうして、長い髪の毛に巻かれて、首を絞められて、目の前が、暗くなって、  

- continue -

2015/11/24