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「利央は出て行ったよ」
 翌朝、朝食をご馳走になっていると、レイさんが淡々とそう言った。スーツに身を包んだレイさんはしきりに腕時計を覗き込みながら、あっという間にトーストを平らげていく。
「出て行った?」
「ああ。俺が起きたときにはもういなかった。あいつの荷物も全部消えてるし」
 俺は唖然とレイさんを見た。寝起きということもあり、事態がうまく呑み込めない。
「行き先は分かってるんですか」
「全然わからない」レイさんは平気な顔でそう答え、コーヒーのカップに口をつけた。どうしてこの人はこんなに平然としていられるのだろう。
「心配じゃないんですか? 警察に連絡しないと」
「必要ない。そのうち帰ってくるさ」
 そんなやり取りをしているうちに、レイさんは朝食を食べ終えて立ち上がってしまった。俺は流し台へと向かうその背中にしつこく問いかける。
「もしかして、前にも同じことがあったんですか」
「ああ。何回もね。もう慣れた」
 レイさんは当たり前のようにそう言ってのける。寂しくはないのだろうか。
 俺は昨夜のやり取りをレイさんに伝えようとして、すぐに思いとどまった。言ったところで何が変わるわけでもない。きっと「あ、そう」なんて返されて終わりだ。
 ふと時計を見れば、とっくに始業の時間だった。俺は慌ててトーストを口に詰め込み、流し台へと持っていく。
「すみません。俺そろそろ帰ります。借りた服は、洗って返しますので」
 流し台で洗い物をしているレイさんに声をかけると、「うん」と愛想の良い笑顔が返ってきた。
「何もお構いできなくて、悪かったね」
「いえ、ごはんまでご馳走していただいて、ありがとうございました」
 パジャマ代わりに着させてもらった黒のスウェットを鞄に詰め込み、靴を履く。制服を洗ってもらったとはいえ下着が前日のままなので、一旦家に帰って着替えたい。
 玄関のドアを開けて外に出る。見上げれば、ひしめくビルの間から青空が見えた。反射的に、左目を眼帯の上から押さえる。天気の良い日は熱くなりやすいのだが、今日はまだ大人しい。
「それじゃ。お世話になりました」
 俺はレイさんに一礼し、そそくさと立ち去ろうとした。しかし突然腕をレイさんに掴まれ、それは叶わなくなる。
「何ですか。俺は探すの手伝いませんよ」
「いや、それはいい。また来てよ」
「は?」思わず聞き返すと、レイさんは苦笑した。
「昨日は関わるな、なんて言ったけど、ごはんくらいは食べに来ていいから」

 アパートを出て、ドラッグストアの角を曲がると、すぐに見知った場所へと変わった。このまま真っ直ぐ行けば、伯母さんの家まで五分もかからない。
 通りをゆっくりと歩いていれば、視線が俺に集まるのが嫌でも分かる。すれ違うおばさん二人がひそひそと何やら囁きあっている。しかし俺の視線に気づいたのか、気まずそうに視線を逸らした。
 あまりにもレイさんの態度が自然だったので忘れていたが、本来ならこういう反応をするのが普通なのではないだろうか。レイさんは俺の容姿なんて気にも留めていない様子だったけれど、本当は気持ち悪いと思っていたんじゃないだろうか。ごはん食べに来てなんて言っていたけど、言葉通りに受け止めていいものか。
 気がつくと、俺の足は家ではなく河原へと向いていた。
 背中に滲む汗を疎ましく思いながらも、乾いた地面を靴の裏で削って歩く。そうやって歩き続けていると、やがて一本の桜が目に映った。母さんが死んだ日から、幾度となく足を運んでいる場所だ。
 俺は鞄を放り出し、木の下に寝転ぶ。そうしてぼんやりと桜を見上げていると、少し気が紛れた。
 ポケットを探り、昨夜渡された御守りを取り出す。橙色の小さなそれは、どこにでもありそうな何の変哲もないものだ。これに、何の意味があるのだろう。あいつの帰りを、どのくらい待てばいいのだろう。
 心地よい風に吹かれていると、次第に瞼が重くなる。初夏の風は生ぬるく、陽ざしは寝るには強すぎる。けれども気を張って疲れていたのか、気がつくと眠りに落ちていた。

 *

 穏やかな陽ざしと電車の揺れが心地よくて、つい欠伸が漏れた。車内でアナウンスが流れる。次が安芸東。この駅の次で降りれば、目的地はすぐそこだ。
 瞼が重い。車窓を右から左に流れる田園風景を眺めるのも一時間ほどで飽きてしまい、今はただただ眠い。とにかく眠い。
 けれどもレイや八神が起きる前に家を出なければならなかった。特に八神ゆうきには昨夜偉そうなことを言ってしまったので、見つかると気まずい。それを防ぐには必然的に早起きとなるわけだ。普段ぐうたらの俺にしてはよく出来たなと思う。
 電車が安芸東に着く。俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。畑を耕す男の背中を何となく見つめていた。時刻は八時過ぎ。こんな早くから畑仕事とはご苦労なことだ。
 しかし男が不意に横顔を見せた瞬間、俺は慌てて立ち上がった。脇に置いていた大きなスポーツバッグを引っつかみ、リュックを片側に背負って閉まりかけた扉の隙間を駆け抜ける。そしてその勢いのまま、改札を抜けて畑へと走った。男を視界に捉え、その背中に思い切り叫ぶ。
「悠介おじさん!」
 振り返ったその人は驚きながらも俺の名前を呼んでくれた。
「利央?」
 やっぱり悠介おじさんだ。
 俺は嬉しさのあまり駆け出した。悠介おじさんに勢いよく飛びつくと、おじさんは多少ふらつきながらも受け止めてくれた。
「久しぶり。最後に会ったのいつだっけ」俺の問いに、悠介おじさんは「覚えてねぇ。またでかくなったな、利央」とごつごつした手で乱暴に頭を撫でた。
「学校はどうした」
「さぼった。おじさんに会いたかったから」そう答えると、悠介おじさんは呆れ顔でため息をついた。
「学校行くのが餓鬼の義務だろうが」
「でもおじさんにしか頼めないんだ」
「何の話だ」悠介おじさんは顔を顰めた。
「とぼけないでよ。知ってるんでしょ? 妖の封印方法」
 親父と仲の良かった悠介おじさんが知らないはずはない。俺の目的に気づいたおじさんはますます目を尖らせる。それでも負けじと睨み返していると、やがて視線を逸らしたおじさんは、再び桑で土を耕しはじめた。
「家庭ほったらかしにして家庭菜園とは、いい御身分だね」
 俺が指摘すると、おじさんは一瞬動きを止めた。嫁と子どもをほったらかして好き勝手やってる、という意識が多少なりともあるのだろう。
「まあおじさんの事情なんてどうでもいいんだ。早く教えてよ封印術」
「俺は教えねえ」おじさんはきっぱりと言った。電車の到着を知らせるブザーが駅で鳴っている。線路を走る電車の音をBGMに、俺とおじさんは少しの間沈黙した。電車の音が遠ざかり聞こえなくなる頃、俺はまた口を開く。
「なんでだよ」
「めんどくさいから」
 ばっさりと切り捨てられ、俺は言い返す言葉をなくした。
 悠介おじさんは極度のめんどくさがり屋だ。職場の人間関係がめんどくさくなって脱サラして農業を始めて、そんな悠介おじさんに呆れて麻美おばさんは実家に帰ってしまった。今だって、息子のレイからの仕送りがなければまともに生活できていない。
 そんなダメ男だけど、陰陽道に関して頼るならこの人しかいない。今回だけは、「めんどくさい」で片付けられては困る。
「お願いします。おじさん以外に頼れないんだ」
 俺が尚も食い下がると、おじさんは作業を止めて振り返った。
「利央、いくらお前の頼みでも無理だ。前にも言ったろ、二度と陰陽師の仕事はしない」
 駄々っ子を諭すような口ぶりでそう言われる。しかしこちらも引き下がるつもりはない。
「炎狐の末裔を見つけた、と言っても?」
 俺の問いに対して、おじさんからの答えはなかった。けれども頬の筋肉がぴくりと動いたのを見て、俺は確信した。
 悠介おじさんの根底には、まだ俺の親父がいる。
 おじさんは鋭い目つきで俺を見据えていたが、ちっとも怖くなんかない。おじさんはただ逃げているだけだ。
「もう一度試してみようよ。あいつならいい実験台になる」
 死ぬことも殺すことも、怖くなんかない。元々八神ゆうきのことは殺す気でいたのだ。あいつが死のうがどうってことない。逆もまた然り。
「俺も、いつだって死ぬ覚悟はできてる」
 だからさ、話だけでも聞いてくれない?
 にっこり笑ってそう言うと、おじさんは苦虫を噛み潰したような顔をした。  

- continue -

2011/04/16