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「で、さっさと封印方法教えてよ」
「まあ待て」
 悠介おじさんはそう言うと、音をたてて湯呑の茶を啜った。狭い和室にズズズと音が響く。俺の分も出されたが、湯呑のぬめりが気持ち悪くて飲む気になれなかった。気持ち悪いのは湯呑だけではない。おじさんの家は、言うなればゴミ屋敷だ。部屋の端で山積みになっている汗臭い洗濯物、散乱したエロ雑誌やDVD、そして蔓延する煙草の悪臭。密閉された空間の異様な臭気に噎せ返りそうになる。なるほど麻美おばさんに見限られるわけだ。
 湯呑を置くと、おじさんは真剣な眼差しで俺を見た。
「最初に確認しておくが、死ぬ覚悟はあるんだな?」
「父さんが行方知れずになったときから、とっくに覚悟はできてるよ」
 俺の言葉におじさんは眉根を寄せる。
「あいつの話題をいちいち持ち出すな。不快だ」
「いいじゃん別に。俺の勝手だろ」
「わかった、もういい口に出すな。で、炎狐の封印方法だが」
「うん」
「まず、炎狐をお前に憑依させる」
「ちょっと待って。それは無理じゃない?」
「あ?」
「八神ゆうきは妖と人間両方の特性を併せ持ってるんだ」
 俺の説明を聞いたおじさんは溜息をついた。
「中身が妖と人間に分離してるのか」
「うん、多分ね」
「そういうことは早く言え」
「あはは」
 笑って誤魔化すと、おじさんは呆れ顔で俺を見た。
「笑い事じゃねえ。無理やり人と妖を切り離すとなると、その八神って奴の身体への負担が大きい」
「そうなの?」
「ああ。術式も複雑だ。何より術者の精神ダメージがでかい」
「でも可能性はゼロじゃないんだろ?」
 茶請けに出された煎餅に手を伸ばしつつ尋ねる。大事なのは、少しでも成功する可能性があるかどうかだ。ここまで来て無駄足だったという事態は避けたい。おじさんは難しい顔を崩さなかったが、否定もしなかった。
「まあ、やれないことはない。切り離すことさえ出来れば、あとはお前の心持ち次第だ。絶対に己の内を妖に晒すな」
「わはっへふほ」
 煎餅を貪りつつ俺は頷いてみせた。どうやら術を教えてもらえるようだ。紆余曲折あったが結果思惑通りに事が運び、嬉しさに口元が緩む。煎餅美味い。
「で、詳しい方法なんだが……」
 おじさんが術式について語りかけ、そして動きを止めた。何やら慎重に辺りを見回している。どうしたの、と俺が問う前におじさんは口を開いた。
「お前、灯篭に触ったか」
 見ると、洋服ダンスの上の灯篭から橙色の光が漏れていた。話に夢中で気づかなかった。俺は首を振って否定する。
「おじさんの式神の仕業じゃないの?」
 俺の言葉に、おじさんはすっと目を細めた。
 灯篭の明かりがふっと消える。閉め切った部屋の中に風が流れ、生ぬるい空気が部屋の中をぐるぐると渦巻くように流れる。埃や塵が風に乗って舞い上がり、器官に入って少し咳き込んだ。
 何だ、これは。
「利央、気をつけろ」
 おじさんは緊迫した面持ちで立ち上がり、懐から呪符を取り出した。
「陰陽師の仕事はやらないって言ったくせに、持ってるんだね」
「うるせえ」
 軽口を叩きながらも、自分の呪符を取り出す。この空気の流れは明らかに可笑しい。立ち上がって辺りを警戒するが、風の発生源が分からない。背中合わせに立つおじさんに尋ねる。
「これ、妖?」
「多分な」
「でも気配ないんだけど」
「ああ。さっぱり感じないな」
 じゃあ、一体何なのさ。問いかけてもおじさんの口から要領のよい答えは得られない。
 風は次第に弱くなっていき、やがて止んだ。この間約五分ほどだろうか。物が壊された様子はなく、かといって俺たちに危害を加えられたわけでもない。けれども一つだけ明らかな異変に気づき、俺は顔を顰めた。
「血の臭いがする」
「馬鹿野郎。結界の一つや二つ張れねえのか」
「おじさんがやってると思ったんだよ」
「俺みたいな普通のおっさんに、そういうことを期待するな」
 そうおどけながらも、おじさんの声色は硬い。おじさんもまた気づいているのだろう。血の臭いが、人間のそれとは違うことに。俺は乾いた下唇を舐める。
「手負いの獣でも迷い込んだかな」

 *

「こんなところにいたんだね、八神くん」
 不意に聞こえた声に目を開ける。すると、やや目尻のつり上がったアーモンド形の双眸がこちらを覗き込んでいた。
「心配したんだよ、三日も学校来てないから」
 クラスメイトの旭雪菜は、そう言って表情を緩めた。寝顔を見られるのも嫌なので仕方なく起き上がると、旭はゆうきの左隣に座った。
 ゆうきはどうするべきか分からず、結局いつものように閉口した。旭もそれ以上は何も喋らず、静かに時間が流れていく。河辺の木陰は風通しがよく、日差しも弱い。初夏の生ぬるい風が頬を撫でる。穏やかな時間の流れに、再び瞼が重くなっていく。
「いつもここにいるの?」
 旭が口を開く。横を見ると、旭は微笑を湛えてこちらを見ていた。
「旭には関係ないだろ」
 ゆうきの言葉に、旭は首を傾げる。
「じゃあ、いつもはどこにいるの?」
「いや……」
 わざとなのか無意識なのか、会話が噛みあわない。旭のきょとんとした顔を見て、何も言えなくなった。そんなゆうきを見て旭は目を細める。
「やっと喋ってくれたね」
 言われて自分の失態に気づく。旭の表情は今までに見たことのないほど優しいものだった。ゆうきは何となく気恥ずかしさを感じ、顔を背けた。
「明日は学校に来るんでしょう?」
 そう尋ねられ、心の内で言葉を返す。行く気にはなれない。あそこには、居場所がない。
 俯いていると、旭が顔を覗き込んだ。
「ねえ、何がそんなに嫌なの?」
「うるさい。ほっとけよ、俺のことは」
「そういうわけにもいかないの」
「うわっ」
 不意に旭に腕を引かれる。体勢が左に傾き、旭の顔が至近距離に迫る。旭の射るような眼差しがゆうきを捉えた。
「学校に来てくれないと、私が困るんだよ」
 そう言って、旭は一層強い力で腕を掴む。この陽気の中、旭の手はひんやりと冷たかった。
「離せ」
「学校に来るって言うまで離さない」
「しつこいぞお前!」
 無理やり腕を振り払い、立ち上がった。頬の火照りを冷まそうと、深く呼吸を繰り返す。
 自分がいなければ生徒に怪我をさせることもない。怯えることもない。むしろ自分がいるほうが困るのではないだろうか。旭だって分かっているはずだ。それなのに何故こうも学校へ来ることを強要するのだろう。もしかするとあの陰陽師のように、何か思惑があるのかもしれない。
「俺は、行かない」
 きっぱりと言う。しかし旭は尚も食い下がる。
「私は待ってるから。いくら八神くんが化け物呼ばわりされたって、私は八神くんの味方だよ」
 その言葉に眉をひそめる。旭の口から、化け物という単語を聞きたくはなかった。
「分かっているなら、何で」
 思わず言葉が口をついて出る。すると、旭の顔からふっと笑顔が消えた。旭はゆっくりと立ち上がる。風が吹きつけ、乱された前髪が旭の目に被さる。その間から見える双眸は、大きく見開かれていた。
「同じなんだよ、私も」
 旭の顔には一切の感情がなかった。その表情にぞくりと肌が粟立つ。
 その口元がゆうきの耳に寄せられる。
 吐息はまるで雪のように冷たい。
「鬼なんだよ」
「鬼?」
 言われたことの意味が理解できず、聞き返す。旭は繰り返した。
「私は、八神くんと同じなんだよ」
「同じ、って……」
 ゆうきが旭の言葉を反芻している間に、旭はその場から去っていった。後に残されたゆうきは茫然として立ち尽くす。耳元に残った吐息の冷たさを思いだし、その感覚にぞくりと戦慄が走った。  

- continue -

2011/09/17