「……ん?」
ノバはゆっくりと顔を上げた。乗せていた文庫本がばさりと下に落ちる。
ゆっくりと身体を起こし、辺りを見回す。静かな街並み、グラウンドの方から聞こえる生徒たちのざわめき。楽しげな笑い声。
何か違和感を感じた。
ふと背後に気配を感じて振り向くと、少し前に八神ゆうきを追跡させていた式神が戻ってきていた。小さな竜巻を起こして現れた式神は、ノバの耳元で囁く。その言葉を聞いて、ノバは大きく目を見開いた。
――そうか。やはりな。
そうとなれば、こんなところで昼寝などしている場合ではない。急がなければ。せっかくの貴重な睡眠時間が奪われてしまうが、まあ仕方が無い。
親指と人差し指をこすり合わせると、式神はポンと音をたてて呪符に戻った。それをズボンのポケットにしまい込み、ノバは急いで屋上を後にする。
自然と走るスピードが上がる。歩幅も大きくなる。
高ぶる気持ち。焦りや不安なども混ざり、ノバは口元がつり上がるのを抑えることが出来なかった。
***
「何だってんだよ……!」
俺が何をした。あいつに何をした。今まで何の接点も無かったのに、どうして。
振り下ろされた鋭い爪を、身体を横にそらすことでどうにか避ける。コンクリートと爪がぶつかって大きな音をたて、辺りにキインと高音が響いた。その音に反応して八神ゆうきの動きが一瞬止まったのを見逃さず、まことは急いで立ち上がり逃げ出した。
右肩の激痛に耐えながら全力で走る。頭の中はまだ整理が出来ていないが、それでも今立ち止まれば命を失うということだけは分かっていた。
頭上を何かが掠める音を聞き、口から漏れそうになる悲鳴をどうにか抑える。
――殺せ!
低く唸る獣のような声がした。耳元に荒い息がかかる。
だめだ逃げ切れない。そう思った瞬間、不意に足元を掬われ、視界が反転した。頭を地面に強く打ち、目の前が瞬間的に暗くなる。
頭の中の鐘がうるさく鳴り響いている。割れてしまうのではないかというほどの激痛だ。
前髪をぐいと掴まれた。赤い目玉が目の前に迫る。大きく見開かれた赤い目玉はまことを映し、ぎらぎらと光っていた。生温かな液体が獣の口からこぼれ、まことの頬にかかる。
ぞわりと背筋が凍った。身体が小刻みに震えだす。
死ぬのか。こんなところで。
「やめろ」
掠れた声しか出ない。身体も思うように動かず、蛇に睨まれた蛙の如く凝り固まってしまっている。
こんなに早く死んでしまうと分かっていたら、もっと楽しい人生を送れるよう努力しただろうに。服装を注意するゴリラみたいな体育教師の言うことも、一度くらいは素直に聞き入れたかもしれない。俺の死をどれだけの人間が悲しんでくれるのだろう。俺が死んで泣くような人間なんて、過保護なおふくろくらいだろう。ああ、愛想笑いぐらい覚えておいて損はなかった。
そんな風に今までの自分の人生を振り返りながら、まことは覚悟して固く目をつむった。
さらば我が人生。悔いは山ほどあるが、別に不幸というわけでもなかった気がする。
そうしてようやく死への覚悟が出来たところで、ふっと身体の上にあった重みと熱気、臭気が消えた。
死んだのだろうか。死んで痛みも苦しみも分からなくなったのか。思っていたよりも随分楽に死ねたなあ。
そんなことを考えながら、ゆっくりと目を開ける。
「……お前、なんで」
どうやら、まだ死んだわけではなかったらしい。
「よう。昨日ぶり」
まことの目の前に立っていたのは、最近転入してきたばかりのノバという男だった。
ノバは俺の前に立ち、バケモノの攻撃を封じている。どうやっているのかはこちらに背を向けているため分からないが、その身一つでバケモノの動きを止めている。
何て奴だ。
- continue -
2010/01/14