真壁が妙に俺に優しい。というか、俺を視界に入れておらず、気にも留めていない。そのことに気づいてから、何となくもやもやしていた。真壁がそこまで気になる井川竜という男は、一体何者なんだろう。
俺と坂下が井川に嫌がらせをすることは、最近全くない。真壁に止められているからだ。でも、だからといってあいつに話しかけようとする奴なんてこのクラスには一人もいない。あいつに関われば真壁の視界に入ってしまい、ターゲットにされてしまうかもしれないからだ。皆それを恐れていた。だから井川は相変わらず孤立している。
何だか最近もやもやする。その原因は、数日前から俺に囁き続けている、俺にしか聞こえない奇妙な声だ。声は、ひたすら俺が魅月竜を殺したことについて責め続ける。何度も何度も繰り返し脳内にかかる圧力に、俺はそろそろ気が狂いそうになっていた。脳内のこの声が一体何なのかは知らないが、明らかな悪意があることは確かだ。
――お前が殺したんだ。
――魅月竜を屋上から突き落とした。
――隠しているつもりだろうが、いつかはバレるだろうよ。誰かが裏切ることだってあるんだから。
全て事実だった。事実だったからこそ認められなかった。俺はいつだって自分に不都合なことから目を逸らして生きてきた。そういう部類の人間だった。今回だってそうやって逃げていれば、問題は自然と治まる。そう思っていた。
授業終了のチャイムが鳴った後、すぐに教室を後にした。猛スピードで廊下を走り、そして屋上へと出た。ここが一番教師に見つかりにくい、安全な場所だ。真壁はいなかった。恐らくまだ学校に来ていないのだろう。
何処へ逃げればいいのだろう。何処ならあいつを遠ざけられる? 頭の中は声の主への恐怖でいっぱいになっていた。
妙な声が聞こえるようになってから、毎晩のように夢に魅月竜が出てくる。あいつは俺をただ見つめているだけで何も言わないが、その目は俺を責めている。俺を恨んでいる。
俺だって、お前を殺さなきゃいけなくなるなんて思わなかったんだ。だって真壁は人をいじめることに慣れていて、問題になることのないギリギリのラインをよく分かっていたから。
声がまた脳内に響いた。ああ頭が痛い。
――お前が魅月竜を屋上から突き落としたという事実は消えない。
「やめろ!」
思わず叫んだ。誰もいない屋上の静寂な空間に、声が響く。空気が何となく張り詰めているような気がした。俺が怖がっているからそんな気がするだけなのかもしれない。
身体の震えが止まらなかった。違う、違う。俺は言われてやっただけだ。俺がやらなくても、きっと誰かが突き落としていただろう。たまたまその役割が俺だっただけだ。恨むなら、真壁を恨めよ。
なあ、俺だって被害者なんだ。分かってくれよ、魅月。
お前には俺の気持ちなんて分からないのだろう。俺があの時どんな気持ちでお前を突き落としたか。どんな気持ちでお前の落ちていくのを見ていたか。どんな気持ちで、魅月竜は自殺したと言い張る真壁に口裏を合わせたか。お前にはそんなことこれっぽっちも分からないんだ。
窓の外を見上げると、雲ひとつない真っ青な空が広がっていた。
そうだ、もう春なのだ。あれから、随分月日が流れたのだ。
学校側はいじめを否定した。ここの大人たちはいじめにより外部の人間から責められるのを恐れている。情けない奴らばかりだけど、それでも俺たちにとっては都合が良かった。
だから大丈夫。きっと全て上手くいく。今頃になって警察沙汰になるなんて考えられないし、何せ俺たちを陥れようと企んでいる奴なんてこの学校にはいない。井川竜たった一人を除いて。
「中島、坂下。お前ら井川に何かしちゃいないだろうな?」
午後の穏やかな陽ざしの中、屋上でやきそばパンをかじりながら、真壁が言った。坂下が屋上のフェンスに寄りかかり、空を見上げながら問い返す。
「何かって?」
「だから、嫌がらせさ」
真壁の言葉に、坂下はぷっと吹きだした。
「お前の口から嫌がらせ、って言葉聞くと、変な感じがするな」
「うるせえ。とにかく何もしてねえな?」
「してねえよ。井川の顔見てりゃ分かるだろ。すこぶる元気だ」
「ならいい。いいか、井川から接触してくるまで、絶対に動くなよ」
「ああ、分かってる」
俺はそんな二人の会話を聞き流しながら、坂下の横に突っ立っていた。今日も風が強い。
真壁は何故か井川が俺たちに何かを仕掛けてくると確信している。その自信の根拠が何処からくるのかは分からないが、とにかく俺は真壁に従うだけだ。今までもずっとそうだったように。
俺が何となくぼんやりしていると、真壁がふとこちらを見た。
「おい、中島聞いてんのか」
――うん、聞いてるよ。とにかく何もするなってことだろ? 大丈夫だよ。
そう言おうと口を開ける。しかし、俺の口から出たのは全く正反対の言葉だった。
「馬鹿だなーお前。あっちが動くの待ってたら日が暮れちまうぜ」
「あ?」
今まで穏やかな表情をしていた真壁の顔が一変した。
ん?
俺、今何て言った?
頬の筋肉が緩む。いつの間にか俺の意思に反し勝手に俺の口元には笑みが浮かんでいた。それに相反するように真壁の顔から笑みが消えていく。
「おい、中島。何でそんなこと言うんだよ」
坂下が信じられないという目で俺を見る。その目が俺に警告していた。やめとけ、お前死ぬぞ。そんな声が聞こえてきそうだ。
俺だって訳が分からない。身体が言うことを聞かないのだ。
俺の口の周りの筋肉がまた勝手に動き出した。
「うるさいなあ。うんざりなんだよ、お前らの命令に従うのは。俺だって好き勝手やりたいんだ」
俺はその時、ようやく自分の身に起きた異変を理解したのだった。
- continue -
2010/05/20
2010/05/22 修正