待ち合わせ時間のぎりぎりまで行くか行くまいか迷っていたが、真壁の「行って来いよ」の一言で、俺はスパイとして井川の元へ潜入することになった。何度も教室に押し掛けられてご機嫌ななめの真壁に逆らう勇気は、流石の俺でも持ち合わせていない。
教室で渡された地図を頼りに、狭い路地をうねうねと通り抜ける。次第に雨脚が強くなり始めた頃、ようやく目的地に辿り着いた。家の表札を見ると、「魅月」とある。目を疑った。魅月というと、俺の頭にはあいつの顔しか浮かばない。
「驚いた?」
振り返ると、いつの間にか井川が立っていた。俺の顔を見て、井川の口元が緩む。
「僕の本当の苗字はね、井川じゃなくて魅月なんだ」
唖然とする俺の腕を取り、井川――ややこしいので井川と呼ぶことにする――は玄関のドアを開ける。
「ただいま、母さん」
顔を出した母親らしき人物は、俺を見つけると「あら」と目を丸くした。
「母さん、友達を連れてきたよ」井川が俺に腕を絡ませ、身体を寄せる。「クラスメイトの、坂下くん」
右隣からふわりと良い匂いがして、一瞬心臓が跳ね上がった。
井川の母親は驚きはしたものの、すぐに柔らかい笑みを見せた。
「涼がいつもお世話になってます」
頭を下げられ、つい「こちらこそ」と返してしまう。いや、別に世話してねえよ。友達ですらねえよ。
そのまま井川の部屋に通され、カーペットの上に座らされたところで俺はようやく違和感に気づいた。あいつの下の名前、竜じゃなかったか。今、あの母親はリョウと言った。
「おい、名前も偽名かよ」
「まあね」特に動揺もせず、あっさりと肯定される。まじかよ。
「よく学校側が許可したな……」
「井川っていうのは母方の前の苗字なんだ。それに、竜は死んだことになっていない。だって、僕が竜なんだもの」
よく分からない理論を繰り広げ、井川が俺にぐっと近寄ってくる。長い睫に縁取られた目に見つめられ、頬に熱が集まった。
よく分からないが、井川の頭の中では魅月竜がまだ生きているのだろう。
次第に薄暗くなっていく部屋の中は、息の詰まる空間だった。俺は少しでも緊迫した空気から逃れようと、部屋を見渡す。そして、勉強机の上に置かれた写真立ての存在に気づいた。写真の中で、幼い二人の赤ん坊が笑っている。その顔は瓜二つだ。――瓜二つ?
「ついでに言うと、魅月竜は双子の弟だよ」
その言葉に驚いて井川を見やる。井川は挑発的な目で、俺をまっすぐ見据えていた。
「魅月が誰の双子だって?」
「だから、僕のさ」
「おいおい、冗談だろ」
笑おうとしたが、頬が引きつって上手く笑えない。信じられないというより、信じたくなかった。予想していなかったわけではない。以前から、頭の片隅でずっと考えていたことだった。でも、これなら魅月竜の生き返りだと言われたほうがましだ。
コンコンとドアがノックされ、おばさんが入ってくる。小さな丸テーブルに冷えたお茶とドーナツが置かれた。
「甘いものは好き? これ、MISDOのドーナツなんだけど」
「あ、はい。好きです。どうも、ありがとうございます」
井川のおばさんに頭を下げれば、隣で井川が密かに笑う声が聞こえた。この野郎、甘党で何が悪い。
おばさんは俺と井川の前にグラスを置く。
「涼がお友達を連れてくるなんて初めてなの。これからも、涼と仲良くしてやってね」
嫌ですとは言えず、俺はハイと頷くしかなかった。
おばさんが満面の笑みのまま部屋を出て行った後、再び沈黙が戻る。
「で? お前は俺に何をしてくれんの?」
呑気にシュガーリングをほおばる井川に問いかける。真壁からスパイ活動を命じられている以上、とことん協力する“振り”をしてやるしかない。そしてもちろん、協力をするならばそれなりの見返りが必要だ。そう思ってこちらが上手に出たのだが、途端に井川の眼光が鋭くなった。
「何か勘違いしてるみたいだね」
「あ?」
勘違いって何だよ、と言葉を続けようとしたときには、既に遅かった。視界がぐるりと反転したかと思うと、気がつけば床に倒されていた。
「何すんだよ」抗ってみるが、掴まれた腕はびくともしなかった。「離せよ」
井川にマウントポジションを取られ、中島に殴られた日のことがふっと頭をよぎった。井川の鋭い眼光が、何故か中島の狂気的な目と重なる。
「君に選ぶ権利はないはずだ。自分の命が惜しいならね」
――それとも、死にたいのかな。
掴まれた腕に、更に力を加えられる。
人の記憶を操ることなんて、できるわけがない。でも、確かに中島は消された。その事実に心が揺らぐ。
「何なら今すぐ死なせてあげようか」
そう言って井川の手が俺から離れていく。何だ何だと訝っていると、急に呼吸困難に陥った。気管がきつく締め上げられ、いつの間にか自分で自分の首を締めていることに気づく。身体が、勝手に動いているのだ。
井川は面白そうに俺を眺め、うっすらと笑みを浮かべて言った。
「選べよ」
目尻から熱い液体が流れ出る。呼吸を求めて口を開けても、喉が締められているため酸素が入ってこない。こんなみっともない死に方をするのは御免だ。まだ死にたくない。
――死にたくない。
声なく呟き、必死に首を横に振ると、ようやく手の力が緩んだ。自由に動くようになった手を床につき、腹に力を入れて起き上がる。一気に酸素が肺へ送り込まれ、少し咽せた。
自分の手をまじまじと見つめる。この手が、勝手に俺の首を締めやがったのだ。
「お前、俺の身体に何したんだよ」
「何も。しいて言うなら、僕には強い味方がいるってことかな」
井川は淡々と言ってのける。言っている意味が分からないが、こいつが相当いかれた奴だということを確信した。しかし、真壁との約束を捨てるわけにもいかない。どちらを敵に回しても、俺は死ぬ。ならば、上手く立ち回るしかないじゃないか。
「わかった。協力するから、二度と今みたいなことすんなよ」
「うん。その言葉を待ってたよ」
よろしくね、坂下くん。
気が進まないまま、差し出された右手を握り返す。意外にもその感触は細く柔らかかった。
- continue -
2012/05/09