いずれ 雨は止む
雲は晴れる
青空はチラリと下を覗き
虹と共に雨雲を押しのけ
そしてこの空を再び
青く 青く 染めていく
ゆうきが、消えた。水に呑み込まれたかと思うと、次の瞬間には跡形もなく消えていた。あの男子学生もいつの間にか居なくなっている。
後に残ったのは、窓側の壁にぽっかり空いた大きな穴と、あちこちに散らばった机や椅子、そして、二人の戦いを呆然と見ていた私たち。
「……夢だ」
きっと、夢だ。こんなの有り得ないもの。私は今悪い夢を見てるんだ。
目が覚めたら、いつも通りの教室に戻ってるんだ。私はいつも通りに茜と喋って、いつも通りに授業を受けて、いつも通りに家へ帰るんだ。
ゆうきと一緒に、帰るんだ。
震えるな、私。
泣くな、私。
ゆうきを信じなきゃ。
絶対、ゆうきと一緒に帰るんだから。
***
今、確かに聞こえた。
“殺さないで”。
あれは、間違いなく母さんの声だった。
「今のは何だ……?」
母さんがあんなこと言ったなんて、俺の記憶には無い。
―コノコニハ、テヲダサナイデ―
第一、母さんはこんな喋り方をする人じゃない。これじゃまるで、感情のないロボットのようだ。
―これは、女の心の声だ。そして、感情が無いんじゃない。感情を表せないんだ―
あの声が、ゆうきの心を見透かしたように言った。
―俺の能力によってな―
***
「今、何て言った?」
聞き間違いか。
―聞こえなかったのか? つまり、俺の能力でこの女の体を乗っ取ったと言ったんだ―
「そんな馬鹿な……じゃあ、お前は、」
―俺はお前をずっと見張っていた。お前が人間界に来た時からずっとだ。炎狐の生き残りであるお前を追って、この世界に来た。そして、お前を拾ったこの女に目を付けたのさ―
声はすらすらと言葉を紡いでいく。
信じられない。これは、真実なのか? 何故そんなことをこの声の奴は知っている? 嘘にしては出来過ぎている。
ということは……この声は本当に、母さん?
そしてこいつは、母さんを殺した、アヤカシ?
―俺は女の体を乗っ取る機会を伺っていた。つまりこの時、既に女は俺に操られてたってわけだ―
『ごめんね、ゆうき。私、もう疲れたの』
『何……に……?』
大きく見開かれた幼い自分の瞳に優の姿が映る。虚ろな目をした自分の母が映る。
(信じられるわけがない)
俺はあのとき、こうして母さんに裏切られたんだ。
『あなたを、守ることに』
確かに、母さんは俺を裏切った。憎いと言われた。一緒に過ごした日々の、全てを否定された。ダメだ。信じちゃダメだ。
誰かのために流す涙なんて、もう要らないはずだ。あの時、決めたはずだ。たとえそれが母親であっても。そうだ、誰も信じてはいけない。
―……それにしても、こいつを操るのは随分手こずったなあ―
辺りに銃声が響く。
―俺の術に人間が抵抗するなんて、この女が最初で最後だったぜ―
***
体がゆっくりと倒れていく。チラリと視界の隅に映った鮮明な赤。恐怖から驚きに変わる幼い自分の顔。桜の木と、その隙間から見える橙色の空。
あの日、母さんの見ていた光景。
―女は最後の力を振り絞り、抵抗してお前でなく自分自身を撃った。それにより俺の作戦は失敗し、仕方なく俺はこの後数年間姿を眩ました―
聞こえてくる声はもう笑っていなかった。
『どうして殺さなかったの……?』
幼い自分がこちらを見下ろして訊ねる。口が勝手に開いた。
『殺すよりも……自分が死んだほうが楽になれると思ったから……』
―コウスルシカ、ナカッタ―
『嫌だ、死なないで!』
―ゴメンネ―
『私は、もう生きたくない。死んで、あなたから解放されたい』
―ソンナカオ、サセチャッテ―
『……解放されたい?』
『……今まで、あなたといることが、とても苦痛だった』
『嘘だ』
―ユウキ、タノシカッタヨ―
『嘘じゃない。私は、あなたが、憎かった』
―ダイスキダッタ―
「私の人生を狂わせたあなたが、憎かった」
―アエテ、ヨカッタ―
「嘘だ! 母さんはそんなこと言わない!」
優の声が、段々か細くなっていく。
『ごめんね』
―イキテ。ナニガアッテモ、イキテ―
そして、空間が歪んだ。
***
気がつけば、涙が溢れていた。
ポロポロこぼれた。
母さん
……ありがとう。
- continue -