「大丈夫そうで安心したよ」
保健室のベッドに横たわる茜に雪菜がそう言うと、茜は苦笑した。
「うん、大したことはないよ。心配かけてごめんね」
「そっか……。ほんと良かった」
まだ顔色は優れなかったものの、こんな風に普通に会話が出来るなら大丈夫だろう。雪菜は安堵した。
今日最後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。
「あ、やばい。私もう行くね」
「うん」
茜にそれじゃ、と手を振り、雪菜は保健室を後にした。
「あれ……?」
廊下を歩いていた雪菜は、ふと疑問を感じた。
随分静かだ。廊下を歩きながらそれぞれの教室の中を覗いてみるが、誰もいない。どこの教室にも、全く人がいないのだ。
(何かあったのかな?)
暫くすると、自分の教室が見えてきた。何やら大きな人だかりが出来ている。皆教室の中を唖然と見ていて、誰一人として喋ろうとしない。
雪菜は人々を押し退け、やっと中に入った。そして目を疑う。
「……ゆうき?」
* * *
偽ノバが殴りかかってくる。ゆうきはそれをかわして鳩尾に拳を入れると、偽ノバはくぐもった声を出してヨロヨロと後ずさりした。
「お前、なかなかやるな」
その言葉に、ゆうきは鼻で笑う。
「伊達に嫌われ者やってないんでね」
ゆうきはこの目立つ容姿のため、上級生に絡まれることが多かった。赤紫色の髪の毛はただでさえ目立つし、気に食わないのだろう。
小学校のときからずっとそうだった。昔は一方的にやられていたが、今ではかすり傷一つ付けることなく勝つようになった。中学校に入ってまだ間もないが、すぐに皆恐れて誰もゆうきに絡まなくなった。それは、経験を重ねていくうちに、段々とゆうきが力をつけていったからである。
つまるところ、喧嘩には自信があったのだ。
しかし偽ノバは尚も余裕の笑みを見せている。
そして何やら呟いた。
『我は水蛇。水よ、我の力となり、全てを呑み込みたまえ』
その直後、ゆうきは自分の目を疑った。どこから現れたのか、大量の水がゆうきを包み込んだのだ。
あっという間に水中に閉じ込められ、酸素を失う。目の前で偽ノバが笑う。
「死ね」
周りの生徒の驚く顔が見えた。その中には雪菜の姿もある。雪菜は何やらこちらを見て叫んでいた。
意識が朦朧としている。視界は段々とぼやけていき、何も考えられない。
そんな中、炎狐の声が脳内に響いた。
―どうして炎狐の力を使わないの? このままだと死ぬわよ―
そんなこと、分かっている。けれど、どうしようもないじゃないか。
この状況で何が出来る? 何も出来やしないさ。
―こんなもの、貴方の妖力なら簡単に破壊できるでしょう?―
(……それは、嫌だ)
―何故?―
力は、使いたくない。そんなものを使えば、今の自分は自分でなくなる。分かっているのだ。
殺せ、殺せ、と誰かがゆうきに囁いている。もう一人の自分が、血を騒がせている。やつは目の前のノバという人間を殺したくて仕方がないのだ。
今ここで力を解放してしまえば、この身体はあいつに奪われてしまう。それだけは、避けなければ。
(せめて、心は人間でいたいんだ)
そう伝えると、炎狐はそれきり何も言わなくなった。
- continue -