朝。ノバは前方にゆうきの姿を見つけ、声をかけた。
「おい、眼帯君」
ゆうきがぴたりと足を止める。
「……誰が眼帯君だ」
ノバは驚いた。ゆうきは眼帯をつけておらず、両の瞳が真っ赤だったのだ。
「……悪い。もう眼帯君じゃねぇな」
「は?」
「何て呼んでほしい? 赤目君? それとも普通に八神?」
少しからかうような口調でそう尋ねると、ゆうきは何とも妙な顔をした。
周りの生徒は恐がってゆうきに近づこうとしない。なのにノバの態度は、変わらない。それが不思議なのだろう。
「……何も訊かないのか?」
ゆうきが恐る恐るノバに尋ねる。
「覚醒、したんだろ?」
そう答えてやると、ゆうきは大きく目を見開いた。
「俺、分かってるから」
そう言って、ゆうきに背を向けた。先ほどまで浮かべていた笑みを、さっと消して。
* * *
鏡をのぞくと、真っ赤な右目が映っていたものだから、やはり驚かずにはいられなかった。とうとう自分はおかしくなってしまったのか。そう思った。
ゆうきがしばらく鏡の前で呆然としていると、不意に炎狐の声が聞こえた。
―あなたは目覚めた―
自分の顔があったはずの場所に炎狐が映り、ゆうきは驚いて辺りを見回した。
が、何も無い。
「どういうことだ?」
―そのままの意味よ。炎狐として完全に目覚めたの。両の瞳が赤いのが、その証―
「……俺はそんなこと望んでない。俺は、人間でいたい!」
鏡の向こうに叫ぶ。化け物なんかじゃない。俺は人間なんだ。
今までずっと信じていた。こんなおかしな容姿だけれど、中身は周りの者と少しも違っていないのだと。信じていた。そのことだけが、これまでゆうきを支えていた。けれど覆されようとしている。侵食されていく。自分でないものに、身体を奪われようとしている。そんな感覚が常に離れないでいる。
けれどゆうきの訴えもむなしく、炎狐は目を細めて言い放った。
―戻ることは許されない。ここまで来たら、後戻りは出来ないわ。ただ前進するのみ。あなたにはそれしか残されていない―
覚悟を決めなさい。
そう言って、炎狐はふっと姿を消した。
再び鏡に自分の顔が映る。その何とも情けない顔に、ゆうきは思い切り拳をぶつけた。
本当は少し迷いがあった。ノバの目の前で覚醒したときも、何となく流されてしまったんだと思う。その強大な力に、自分は甘えてしまったのだ。
* * *
久々に、雨が降った。ここ最近は晴れていたのだが、午後から突然激しく降り始めたのだ。どこかでゴロゴロと雷の音が聞こえる。
そんな中、普通に授業は始まり、時間はいつもどおりに過ぎていく。
今は美術の授業。ゆうきのクラスは、美術室で模写をしている。
ゆうきは、窓側の席から窓の外をボーっと眺めていた。
雪菜は、友達の茜と一緒にお互いの出来映えを見せ合いながら作業をしている。しかし雪菜はゆうきが気になるようで、何かとゆうきの方へ目を向けていた。そんな雪菜の様子を見て、茜はじれったそうに言った。
「そんなに八神君が気になるなら、行って話しかけたらいいじゃない」
「えっ」
驚いて雪菜は書く手を止め、茜を見る。
「どうして分かったの?」
「あんた見てれば誰だって分かるわよ。ほら、さっさと行きな!」
「え、ちょっと!」
茜に強く背中を押され、雪菜は仕方なくゆうきの席へ足を運んだ。因みに授業中だというのに教室内は騒がしく、立ち歩く生徒もあちこちにいるので、雪菜はそんなに目立たなかった。
「ゆうき」
雪菜はゆうきの席の右側に立ち、ゆうきに話しかけてみる。しかしゆうきは雪菜に気づかないのか、ボーっと窓の外を眺めていた。
暫くして、ゆうきが口を開く。
「 」
「え……」
その直後、雷の光がゆうきの顔を青白く照らし出した。
ゆうきはもう一度、呟く。今度ははっきりと雪菜にも聞き取れた。
「壊れちまえ」
そう呟いたゆうきの顔は酷く冷めていて、雪菜はゾクリと寒気を感じた。雪菜の知る、いつものゆうきではないと感じた。
「ゆうき……?」
ゆっくりとゆうきがこちらに顔を向けた。表情はさっきと変わらない。
「何」
「……何かあったの?」
この時、何となく嫌な予感がしていた。この嵐はその前触れなんじゃないか。そう思った。
そして、
「何もないよ」
そう言ってまた窓の方を向いてしまったゆうきの存在を、急に遠く感じた。言い知れぬ不安を覚えた。
遠くで雷が鳴る。またどこかで雷が落ちた。
- continue -