あの日、幼稚園から帰った私は、いつものようにゆうきを誘って河原へ行こうと、ゆうきの家へ向かった。
インターホンを押して暫くすると、ゆうきの母親の優さんが出てきた。ものすごく美人で、薄茶色の長い髪の毛が印象的な人だ。
「あら雪菜ちゃん。また来てくれたのね」
優さんは、そう言ってニコッと微笑んだ。いつも感じているが、本当に綺麗な人だ。
けど私はこの時、何か違和感を感じた。
「はい。あの、ゆうきはいますか?」
少し気になったが、訊くようなことでもないので、口には出さなかった。
「ああ、ゆうきね。ちょっと待ってて。今呼んでくるから」
そう言ってゆうきを呼びに向かった足取りも、ふらふらと危なっかしかった。
一分も経たないうちに、ゆうきが出てくる。ゆうきは、私の顔を見てニッと笑った。
「じゃ、行こっか!」
* * *
河原へ行くと、春の暖かい風に桜の木がさわさわと揺れ、午後の日差しも穏やかで、とても気持ちがよかった。
暫く遊んだ後、桜の木の下に座って休んでいると、ゆうきがポツリと言った。
「ここんとこ、母さんが変なんだ」
「おばさんが?」
「うん。ずっとボーっとしてて、ぼくの話全然聞いてないんだ」
そう話すゆうきの表情は、少し暗かった。
「あたしが聞いてあげるよ、話」
私がそう言ったが、ゆうきはすぐにふるふると首を横に振る。
「雪菜じゃダメだ。母さんじゃないと」
「……そっか」
私はまだ信用されてないんだと思うと、少し寂しかった。
* * *
たくさん遊んで、気がつくといつの間にか夕方になっていた。太陽が西に沈みかけている。帰りが遅くなると叱られるので、私は帰ることにした。
「ゆうき、私そろそろ帰るね」
「あ、うん。……あれ? 母さん?」
ゆうきが私の向こうを見て驚いたように言った。ゆうきにつられて振り向くと、遠くの桜の木の下に優さんらしき人の姿が見えた。ゆうきが優さんの方へ走り出す。私も慌てて後を追う。
「どうして母さんがこんなとこにいるの?」
ゆうきが息を切らせながらそう尋ねると、優さんは無表情のまま言った。
「行かなきゃいけないところがあるの……」
なんだか様子がおかしい。私はすぐに気づいた。
「いくって……こんな時間にどこへ?」
ゆうきが訊ねたが、優さんは黙り込んでしまった。気まずい空気が流れる。
暫くして優さんがようやく言葉を発した。
「ゆうき……ごめんね」
優さんの頬を一筋の涙が伝う。
「え?」
ゆうきが首を傾げたその時。黒い物体が素早くゆうきの額に押し付けられた。
黒光りするそれは、映画やドラマでよく見る拳銃というもので。
「母さん……?」
* * *
ゆうきの声は震えていた。
「ごめんね、ゆうき。私、もう疲れたの」
「何……に……?」
優さんの目は、とても冷たかった。私は鳥肌がたった。
「あなたを、守ることに」
ゆうきの顔に恐怖の色が浮かぶ。
(助けなきゃ)
そう思った。でも、手足が全く動かない。恐くて動けなかったのだ。
今行ったら殺される。怖い。死にたくない。そう思ってしまった。
(ゆうき……!)
私は目をぎゅっと閉じて俯いた。
耳をつんざくような音が辺りに響く。
目に涙が滲んだ。自分が情けなかった。
「どうして……?」
けれど聞こえてきたのは間違いなくゆうきの声で。私はハッと顔を上げた。そして息を呑んだ。
私の目に飛び込んできたのは、血まみれで倒れている優さんの姿。そしてその傍らに立ち尽くすゆうきの姿だった。
ゆうきが優さんに訊く。
「どうして、ころさなかったの?」
「……自分が死んだ方が、楽になれると思ったから」
とても小さくて弱々しい声だった。
「いやだ、死なないで!」
ゆうきが叫ぶ。優さんはそんなゆうきを見つめながら、小さな声で、けれどはっきりと言った。
「私は、もう生きたくないの。あなたから解放されたいのよ」
ゆうきの背中の震えがピタリと止まる。
「……今まで、あなたといることが……とても苦痛だった」
「うそだ」
「嘘じゃない……私は、あなたが憎かった」
「うそだ」
「私の人生を狂わせたあなたが、憎かった」
「うそだ! 母さんはそんなこと言わない!」
優さんの声は、段々か細くなっていた。
優さんは最後に一言、
「ごめんね」
そう言って、事切れた。
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