桜散る


 風が強い。そして、冷たく、鋭い。
 肌に刺さるような風を全身に浴びながら、水蛇とゆうきは戦っていた。
―フッ。なかなかやるじゃねぇか―
「そっちこそ」
 互いに息が荒い。
 ゆうきはニヤリと笑みを浮かべる。その目に迷いや不安はないように見えた。
 水蛇は素早くゆうきの背後に移り、尾を振り上げる。しかし、それはゆうきの腕によって阻まれた。その腕は人間のソレではなかった。尾にソレの熱が伝わる。
 あまりの熱さに、水蛇は一旦その場を離れた。二、三メートル程距離を置く。
(こいつ……)
 若造のくせに、何て奴だ。十二年間人間として生きてきたはずなのに、どうしてこんなに力を持っているのだろう。
 思わず笑みが零れた。皮肉ではない。純粋な楽しさからだった。
 ゆうきがそれに気づき、怪訝そうな顔でこちらを見る。
―人間に生まれるなんてことさえなけりゃ、こっちで上手くやれただろうにな―
 思わず、そう零す。その途端、ゆうきの目つきが変わった。
 言われたくなかったのだろう。特に、母の死が自殺でないと知ったばかりの今は。
 けれど、これで良かった。この目を待っていたのだ。
 それでいい。そうやって、俺をもっと憎めばいい。

 そして、終わらせてくれ。
 もう、疲れちまった。

「この野郎……!」
 瞳孔をいっぱいに開いて、ゆうきは右手の長く伸びた爪で水蛇の胴体を切り裂いた。紫色の血が溢れ、辺りに飛び散る。ゆうきの顔にも、思いきりかかった。赤紫色の髪の毛が紫色に染まる。
 水蛇は笑っていた。真っ二つになった体で、動けない。それに、痛い。否、痛いなんてものではない。息がまともに出来ない程に、苦しい。苦しいはずなのに、笑っていた。自然と笑っていた。
 これで楽になれる。その安堵感が大きかった。そんな自分の心境に、我ながら驚いてしまう。俺はこんなにも執着心のない奴だったのか。
―ありがとな、坊主―
 自然とそんな言葉が出ていた。ゆうきは訳が分からないという顔をしている。
 分からない方がいい。
『最後の勝負だ』
 こいつがそう言った時から、目的はこれだった。
 やっと気づいたんだ。解放される方法は、これだけなんだと。
 簡単なことだった。最初からこうすればよかった。そうすれば苦しむことなんて無かったし、誰も恨まなくて済んだのだ。
 俺は何て遠回りをしてしまったのだろう。
 水蛇はゆうきの顔を見る。ゆうきは傷ついた顔をしていた。
 ざまあみろ。
 お前はそうやって苦しめばいい。これからもずっと、一つの命を奪ってしまったという事実を胸にしまいこんで、生きていけばいい。
 俺の分まで、苦しめばいいんだ。
―あばよ、八神ゆうき―

 意識が遠のいていく。世界が、遠のいていく。
 そして目の前が、真っ白になった。


 ***


 初めて“殺し”をした。命を奪う側の人間になってしまった。
 水蛇の体は、少しずつ蒸発するように薄くなっていき、やがて消えた。
 ぽたぽたと紫色の雫が地面の雑草に跳ねる。水蛇の血で髪の毛がべっとりと額や頬に張り付く。両目は熱を持ったまま、どくどくと脈打っている。
 確かにお前が母さんを殺した。憎かった。殺したかった。それは事実だった。
『ありがとな』
 そう、俺は殺すことで、あいつを自由にしてやった。蛇野郎はそれを望んでいた。分かっている。分かっているけれど。
 膝が地につく。ゆうきは両の拳で、思いきり地面を叩いた。
 涙が止まらない。震えが止まらない。後悔、恐怖、懺悔、怒り。様々な感情がない交ぜになる。
 殺した。この手で、あいつを殺した。その事実が重い。
 畜生。
 これじゃあ同じじゃないか。
 プライドや復讐心。そんなものの為に戦っても、結局何も得るものなど何も無いじゃないか。
 違う。こんなの間違ってる。俺はこんな結果を望んじゃいない。
 確かに自分がアヤカシであることを認めたくはなかったし、能力を使うのも嫌だった。かといって、母さんを殺した奴を赦すことは出来ず、どっちつかずの状態でさまよっていた。
 その結果がこれだ。これが、俺のやろうとしていたことなのだ。
 間違っていたのは、俺だ。
「ごめんなさい」
 母さん。雪菜。
 ごめんな。俺だったんだ。お前ら殺したの、俺なんだ。
 茜色に染まった空は、赤やピンクに色を変えながら、どこまでも続いていく。そしてやがて、濃い藍色に移り変わる。一人取り残される焦燥感。
 乾いた涙の跡をそのままにして、ゆうきは立ち上がった。涙で滲んでいるせいか、視界は赤しか見えない。
 その赤はやがて、赤黒く変わった。黒が段々と視界を覆っていく。
 人間のものではなくなった右腕を、ゆっくりと動かす。鋭く長い爪を首もとに持っていく。その動作に、迷いは無い。
 はらり。桜の花びらがひとひら、頬に触れた。花びらは、血液で赤紫色に染まっていく。
 その花びらの隅々まで赤紫に染まりあがった時。
(……ゆるしてください)
 母さん、赦してください。俺はもう一度だけ、罪を犯します。




 その瞬間、一つの命が散った。

 

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