君の死で世界が救われるとしたら 君はいのちを捧げますか
目の前の旅人の青く鋭い眼光に射すくめられ、圧倒的な力の差を感じずにはいられなかった。
手汗で滑り落ちそうになるナイフの柄を、少年は何度も握りなおす。心臓の鼓動が大きく響く。
「後悔は、無いよ」
少年は震える声で呟いた。半ば自分に言い聞かせるための言葉だった。
足元に倒れている少女を見る。その顔は生死の判断が難しいほど青ざめていた。
「この子を憎むことは出来ない」
悪いのは、逃げてしまった自分だ。
母のマリーの死を悲しみ、父は後を追って自殺した。実の息子よりもマリーを選んだ父を、少年は許すことが出来なかった。もちろん、元はといえばマリーを殺したのは少女だ。けれども、少女をこうしてしまったのは大人たちだ。少年の両親と少女の両親の間には複雑な大人の世界があり、少年も少女もそのいざこざに巻き込まれてしまっただけなのだ。だから少女が悪いというわけでもない。少年はそのことをよく分かっていた。
少年は被っていた黒い布を取り払い、無造作に床へ落とした。その時、初めて旅人の目が大きく見開かれ、感情が垣間見えた。
「お前、その傷……」
顔を裂くように、額の中央から鼻の先まで刻まれた一本の切り傷。初めて見た者は、大抵こういった反応をする。
「あの子につけられた傷さ」
大人たちのいざこざにより両親を失った少女は、誰よりも少年の母・マリーを憎み、そして少年をも殺そうとした。傷は深かったが幸い命に別状はなく、少年はどうにか村を逃げ出しこうして生き延びてきたのだ。
「こんなもの外部の人間には見せられないだろう? だからずっと隠していたのさ」
少年はそう言うとナイフを構え、全力で旅人へと向かっていった。しかし旅人は難なくナイフを片手で握り、動きを止めた。その手からナイフを引き抜こうともがくが、びくともしない。旅人の手から真っ赤な血が溢れ出し、床の赤い水溜りを次第に大きくしていく。
「無理だ。お前には殺せない」
旅人は冷めた表情で少年を見下ろしていた。やはり動じた様子は少しも見られなかった。少年は悔しさに唇を強くかみ締める。
力の差が歴然としすぎていた。元々勝敗の行方は決まっていたのかもしれない。少女を救うほどの力など、元から自分には無かったのだ。
少年は膝から崩れ落ちた。堪えていた涙が堰を切ったように流れ出す。
「いっそのこと、ひと思いに殺してくれ」
少年は旅人に言った。旅人は何も言わず少年を見下ろしている。
傍で倒れている少女の手を握る。その体温は段々と下がっているようだった。
せめて一緒に死にたい。この手で守れないのなら、こんな命は要らない。
旅人は持っていたナイフを床に投げ捨てると、コートの内側から拳銃を取り出した。黒光りするそれを少年の額に当てる。ひんやりとした銃器の冷たさが少年の心を凪いでいくのが分かった。
銃声が響き渡ったのは、それからすぐのことだった。
これでいい。
これできっと、全てが上手くいく。誰一人報われぬ者はいない。
皆の望むハッピーエンドだ。
少年と少女の死体の上に、旅人は赤い花を散らばせた。それは旅人なりの弔いだった。
血にまみれた死体が方々に散らばる無残な光景を背に、白い雪の中に転々と赤い血を落としながら、旅人は再び歩き出した。小さな心臓の入った布袋をコートの内側に忍ばせ、険しい山道を歩き出す。
少女を殺すように依頼してきたのは、隣町の町長だった。少女を殺すという依頼に際し、旅人は多額の金を得ていた。無論、断るわけにはいかない。どんなに幼い赤子であろうが、人の良い人物であろうが、全て依頼として完璧にその心臓を手に入れてきた。命を助けたことなど一度も無い。生きるためには仕方の無いことだった。この職に就いたばかりの頃は多少戸惑いもしたが、今では何の躊躇いもなく殺せる。あの少女ほどではないが、快感すら覚えることもある。人間としては所謂クズの部類だ。
「しかし、私もどうかしている」
旅人はぽつりと呟いた。
あの少年が目を覚ました時、きっと少年は自分を憎むだろう。旅人は思った。
生き延びたところで少女は死んでいるし、回復薬のせいでしばらくは自由に身体を動かすことが出来ない。
それでも、あの少年は生きるべきだ。どれだけ多くを失っても、生きるべきだ。そう思った。生きるか死ぬかは今後の少年次第だが、選択権を与えてやりたかった。
さて、あの少年はどうするだろう。絶望し、ナイフを己の心臓に突き刺してしまうだろうか。それとも、恨みを力に変えて旅人である自分を探し回ってくれるだろうか。後者の可能性は低いかもしれない。
それでも、それでも。
- end -
2010/04/05