ひとに触れることを畏れてはいませんか
旅人は少女の隙をついて、再びナイフを投げつけた。いつの間にナイフを手にしたのか、少年には分からなかった。
少年の目では追いつけないほどの速さで飛んでいったそれらは、少女のワンピースの裾を僅かに切り裂いた。切れ目から僅かに、透き通るような白い肌が覗く。
少女は嬉々として見えた。その大きく見開かれた目を見て少年は胸騒ぎを感じ、被った黒い布をしっかりと握り締める。
「旅人さん、貴方なかなかやるじゃない」
息を切らせながらも、少女は楽しげに言った。地面を蹴り、再び走り出す。少女のいた場所に、深くナイフが突き刺さった。
「けど不思議ね。どうしてそんなに動けるのかしら」
「何度もこんなことをしていれば慣れもする。それに、君以上に動けなければとうに死んでいる」
「ふふっ、それもそうね」
「こっちからも一ついいかな。何故君はこんなことをした?」
少女はその問いに答えず、旅人に蹴りをくらわそうとする。旅人はそれを軽くいなした。
「お前は何のために人を殺す」
旅人が少女に問う。少女は笑ってこう答えた。
「楽しいからよ」
「本当に?」
「ええ」
少女はテーブルの近くに落ちていた果物ナイフを拾い、旅人に向かって投げる。
旅人はそれを自分のナイフで弾いた。刃物のぶつかる鋭い音が部屋中に響く。
(何かしなきゃ)
少年は思った。
けれど自分に何ができる? 足手まといになるだけなんじゃないか? そうも考え、ためらう。
(だって、自分のことなのに)
これは自分とあの娘の問題なのに、なぜ旅人さんは割り込むのだろう。なぜこちらの味方でいてくれるのだろう。
成り行きだったはずだ。おなかがすいて、二人でこの村にたどり着いて……。
一体、どこからおかしくなった?
* * *
「ねえ、貴方は何もしないの?」
少女がこちらを見る。黒布の中この目玉を、少女はしっかりと捉えているように思えた。
少年は黒い布を握り締めた。言葉を紡ごうとする唇が震える。
「ごめんなさい」
罪悪感からそう言うと、少女の青い瞳が大きく見開かれた。一瞬その顔から笑みが消える。
けれど次の瞬間には再び笑みを浮かべた。口元に綺麗な弧を描く。
「……ごめんなさい、で済むと思ってるの?」
少女は旅人の刀を振り払い、一瞬の隙をついて少年に走りよってきた。少年は慌てて後ろへ下がる。
考える間もなく、少女が目の前に迫っていた。
「貴方は私の気持ちを考えようとしなかった」
今やたくさんのナイフが、床のあちらこちらに散乱していた。それに混ざり、割れた窓ガラスの破片や食器の欠片、更にはこの家の住人だったのであろう者たちの屍も散らばっていた。
「私の父と母を私から奪ったのは誰? そもそもの原因はあなたじゃない!」
静かな村の中に少女の甲高い声が響き渡る。
少年は後ろの壁にぶつかった。目の前のわずか数センチ先に、少女の青い目があった。
今にも泣きそうに歪んだ少女の瞳を見て、少年は小さく呟く。
「ごめんよ」
そんなつもりじゃなかった。君を泣かせようなんて気はこれっぽっちもなかったんだ。そもそも、君は強いから泣かないと思っていた。
けれど目の前の少女の瞳からは次々と涙が零れ出ている。
「だから、今更遅いんだってば」
少女の口元には、それでも笑みが絶えない。
ナイフが少年目掛けて振り下ろされる。
「殺さなけりゃ、気が済まないのよ!」
少年は死を覚悟し、目を固く閉じた。
けれどいつまで経っても痛みはやってこない。身体に異変もない。
少年は再び、ゆっくりと目を開いた。
「……どうして」
思わず呟く。
旅人が、少女が振り上げた腕を背後から掴んでいた。
どうして、どうして自分たちの間にそこまでして入り込んでくるんだ?
「君がこの坊やを殺したところで、何の価値にもならないよ」
旅人は言う。口元から伝う赤い液体をぺろりと舐め、冷たいまなざしを少女に向ける。
少年は背筋が寒くなるのを感じた。旅人の少女の腕を掴む力は強く、少女の腕は少しも動かない。
少女は振り返って旅人を睨んだ。
「はなせ、クズ男!」
少女のその言葉に、旅人はにやりと頬を緩ませた。
「私のどこを見てそう言ってるのか知らないが……まあ確かにそうかもしれないな」
旅人は少女の腕をよりいっそう強く握った。少女が金切り声を上げる。
その腕を今にもへし折ってしまいそうな勢いに、思わず少年は叫んだ。
「旅人さん、もうやめて!」
けれど旅人はそれに耳を貸さず、少女の腕を掴んだままだ。その瞳は獲物を捉えた獣のように、不気味な色をしていた。
ぼきりと大きな音をたてて、少女の腕が可笑しな方向に折れ曲がった。その瞬間、少女は白目を剥いて耳をつんざくような悲鳴を上げた。少年は思わず目を伏せる。
少女は痛みのあまり、気を失ってその場に崩れ落ちた。少年はこちらへと倒れこんでくる少女を反射的に避けてしまう。
「……自分でもよく分かっているさ」
旅人は自嘲的な笑みを浮かべていた。
少年はおそるおそる少女に近づく。
透き通るような白い肌は、しばらく窓から差し込む光に照らされ、ますます白く見えた。
少女のこけた頬をそっと撫でる。
「ごめんね」
そう小さく呟いた。
ただ怖がるばかりで、この子が傷ついていることに気づけなかった。ただ逃げることに精一杯で、周りなんか見えちゃいなかったのだと、少年は気づいた。
今更になって後悔した。自分がしてしまったことの愚かさに、ただただ涙を流した。
- continue -
09/02/12