第一印象は笑顔

 一年前の春、彼は突然背後に現れた。

「今日は転入生を紹介する」
 あの日、私は転入生として新たな青春の一ページを刻もうとしていた。高校二年生からの転入ということで、実に珍しい。珍しい故に騒がれる。ドアの向こうから聞こえてくるざわめきを予想できてはいたものの、やはり心臓が高鳴る。膝が震え、呼吸もうまくいかない。深呼吸しようと息を吸ったり吐いたりしてみるが、酸素が上手く肺の奥まで行き渡らない。
 少しだけ眩暈がした。
 帰りたい。今すぐ、Uターンしてしまいたい。
 思わず足が後ずさった時、背後で男の子の声がした。
「なんでそんな怖い顔してんの?」
 私は突然背後で声がしたことに驚き、心臓が止まりそうになった。振り向くと、私より少し背の高い男子学生がそこに立っていた。ひょろ長い、という言葉がよく似合う体型だ。男子学生はぼさぼさの明るいくせっ毛をぼりぼりと掻きながら、大きな欠伸をした。
 黙りこくっていると、その男子学生はまた尋ねてきた。
「なあ、教室入んねーの?」
 まだ眠そうな目で見下ろされる。威圧感はなく、緊張が少しほぐれた。
「ち、ちょっと、怖くて……」
「怖い? じゃあ一緒に入ろうぜ。俺もこのクラスなんだ」
 男子学生はそう言ってへらりと笑い――本当にへらりという言葉がぴったり当て嵌まる笑みだったのだ――私の腕を掴む。わ、男の子の手だ。なんて意識する暇はない。男子学生は勢いよくドアを開けた。抵抗する余地なんてもちろんない。気がつくと、約三十人全員の目が男子学生と私に向いていた。
 心臓がこれでもかというほど暴れている。怖くて怖くてたまらない。
「また遅刻か、相沢」
 教師が呆れたような顔をしてため息を零した。
 相沢と呼ばれた男子学生は私の手を離すと、また一つ大きな欠伸をしつつ教師に言った。
「ふわぁ……すんませーん。来る途中、子どもが生まれそうな妊婦さんが倒れてて……」
「そういう見え透いた嘘をつくな」
「あは」
 反省の色なし、という態度に、教室の空気がふっと緩んだ。あちらこちらで笑いが起こっているのを見ると、おそらく彼は常習犯なのだろう。
「相沢、さっさと席につけ。お前の後ろにいる転入生を紹介できねーだろうが」
 教師が言う。その言葉で、視線が私に集まる。
「まずは簡単に自己紹介をしてくれるか」
「え、あ、はい」
 黒板に教師が私の名前を書く。
 教壇の横に立ち、私は口を開いた。
「あの……えっ、と」
 どうしよう、言葉が出ない。
 私はすぐに口を閉じた。唇がわなわなと震えていて、上手く喋れそうにない。怖い。顔に熱が集まり、頬の筋肉が固まって今にも泣いてしまいそうだ。恥ずかしい。私は俯いた。やっぱり帰りたい。この場からさっさと消えてしまいたい。
「ほら相沢、さっさと座れ」
 まだ席についていなかった相沢君が私をジッと見ていた。彼は教師の言葉には何も返さず、私のところまで来て肩をぽんと軽く叩いた。
 視線がぶつかる。彼の口が音を発さず動いた。
“がんばれ”
 彼は口パクで私にそう伝えるとあの気の抜けた笑みを浮かべ、自分の席についた。
 私はとても単純な生き物だから、その笑みについ錯覚してしまった。味方がいる、と思ってしまった。彼の笑顔にはそれほどの不思議な何かがあった。
「の、野々村千恵です。どうぞ、よろしく」
 いつの間にか、手足の震えは治まっていた。

「さっきはありがとう」
 幸運にも私の席は相沢君の隣だった。休み時間になり、相沢君にお礼を言うと、彼は先ほどのようにへらりと笑った。何だか人を安心させる笑みだ。
「良かったな、まあまあの挨拶だったじゃん」
「あ、ありがとう……」
 彼がいなければ、私はもっと緊張して喋れなくなっていただろう。本当に助かった。
「まあ、これから宜しくな、野々村」
「うん。あの、貴方の名前は?」
「俺? 俺は相沢永」
 アイザワエイ。その名前と顔をしっかり頭にインプットさせる。
「相沢君、よろしくね」
「永でいいよ」
「永、君?」
「おお。苗字で呼ばれるのはむず痒いんだ」
 そんな彼の言葉につい笑みが零れた。「私も、千恵でいいよ」  

- end -

2010/06/26

続かない。