解放


 頭痛のせいで、ゆうきは次の授業も全く集中出来ずにいた。理由は分かっている。ずっとそのことばかり考えていたのだから。
(野葉理央……全てあいつのせいだ)
 頭痛が激しくなる。ああ、もうダメだ。
「先生、頭痛が酷いので保健室へ行ってもいいですか?」
 静かな教室にゆうきの声が響く。教室内全ての目がゆうきに集中した。
「八神か。今日はどうしたんだ?まあ、保健室でゆっくり休め」
「はい」
 教師に許可をもらい、ゆうきは教室を後にした。




* * *




 ノバは校舎裏を歩いていた。授業終了時刻が近いので、早めにゆうきの教室に行って待っていようと思ったのだ。
 ふと自分に近づいてくる妖気に気づいた。ノバはポケットの中で呪符を掴む。
 そして校舎裏の角を曲がって現れたのは、アヤカシではなく、八神ゆうきだった。木陰でぐっすりと眠っている。
「なんだ、こいつか……」
 少し安心する。が、油断は出来ない。こいつだってアヤカシには違いないのだ。
 ゆうきがいつもつけている黒い眼帯の紐が緩んでいることにふと気づく。ノバは自分の好奇心を抑えきれなかった。
(ちょっとだけ、一瞬だけ……)
 自分に言い聞かせ、するりと眼帯をずらした。けれど露わになったのは、何てことはない、ただの人間の瞼だ。
「なんだよ……隠してるから何かあるのかと思ったのに」
 はぁ、とため息をつく。残念ではあるが、正直安堵の気持ちもあった。
「ん……。あれ、アンタは……」
 小さく唸り、ゆうきが目を覚ます。その瞳を見て、ノバは大きく目を見開いた。
「八神、お前その目……」
 真っ赤な左目。殺気のこもった目つき。片方だけ別の人格が宿っているかのような、この妖気。
 まるでノーマークだった。何てことだ。
 そうか、今まではこの眼帯で妖気が抑えられていたのか。
 
 ノバはポケットから呪符を取り出し、寝ぼけ眼のゆうきに告げる。
「八神ゆうき。正直本気でお前と戦うつもりはなかったんだが……こうなっちゃ仕方ない。お前には死んでもらうよ」
 その時のゆうきの驚いた顔を見て、ノバは少しだけ笑みを零した。




* * *




(俺が一体何をした?)
 ゆうきは混乱していた。頭痛が激しくて、上手く頭が働かない。考えようとすればするほど、痛みが増していく。
 左目を見られたのがいけなかったのか。そうだ、こいつ、おんみょうじがどうとか言ってたっけ。
『我は悪妖を裁く者なり。悪妖よ、塵となり無に還れ』
 ノバはそう呟き、短冊のような紙をこちらに投げる。そしてその紙が体に触れた途端、身体に激痛が走った。
 肉体を何やら熱いものに傷つけられていく。頬から生暖かい液体が垂れていくのが分かった。
 それに、息苦しい。うまく呼吸が出来ず、酸素が入ってこない。
 ゆうきはひたすらもがき続けた。もがいて、もがいてもがいて、そして不意に声を聞いた。それは静かに脳内に響いた。

―ゆうき、このままだと消えて無くなってしまうわよ―

 いつかの炎狐の声だ。ゆうきは驚いて問い返す。
(消えて、なくなる?)

―ええ。助かる方法は一つだけ。あなたがアヤカシとしての自分を受け入れることよ―

(ふざけるな。アヤカシの力なんて使いたくない。俺は人間でいたいんだ。これ以上あんたの言うことなんか聞かない)

―それでも構わない。困るのは貴方。けれど私の言う通りにすれば、ここで死ぬことは避けられる。生きるか死ぬかは、あなた次第なのよ―

 その言葉に、ゆうきの心は大きく揺らいだ。
 生きることはゆうきにとって、苦痛でしかなかったのだ。
 
(そうだ、無理に生きなくてもいいじゃないか)
 ここで死ねば、全てから解放される。それでいい。その方がよっぽど楽だ。そう思った。
 ビリビリと痺れ、体が麻痺していく。痛みさえも感じない。
 もうすぐ自分は死んで、この世界から消える。きっと自分が消えても、誰も悲しまないのだろう。そういう存在だった。だから、誰にも迷惑はかけない。
 誰も悲しまない。自分が死んだって、涙一滴零しやしない。
 そうしていつか、忘れられていく。存在自体を。八神ゆうきという人物そのものを。

 それでいいじゃないか。何を躊躇う。何故震える?

―……どうするの?―

 炎狐の問いに、ゆうきはゆっくりと答えた。

(……やっぱり、生きたい)

 結局、独りは嫌だった。




* * *




(バカな……)
 ノバは焦っていた。
(妖気が増しているだと?)
 おかしい。八神ゆうき、お前は一体何なんだ?
 ゆうきの両目がしっかりと見開かれる。その両目は燃えるような赤い色を帯びていた。
 その身体の周りに、纏うように炎が現れる。明るく輝く炎が辺りを橙色に染めていく。そして炎はお札を焼き尽くし、あっさりとノバの術を破った。

「……マジかよ」

 

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