始まり


 風が気持ちいい。空は青く、雲はゆっくりと流れ、時間が穏やかに流れていく。
(平和だ……)
 八神ゆうきは、河原の土手に寝ころんで、昼寝をしていた。
 季節は春。温かい日差しが、ゆうきを夢の世界へと導く。
「?」
 ふわりと、ゆうきの額の上に何かが舞い降りた。それは、桜の花びら。
 河原の土手に一本だけ生えている桜の木。よくここに一人で来て、寝ころんで桜の木の枝の隙間から狭い空を見上げるのがゆうきの日課だった。




* * *




「雪菜、良かったね! 私たち一緒のクラスだ!」
「うん」
 今日は中学校の入学式。
 旭雪菜は、今日から始まる中学校生活に、期待に胸を膨らませていた。勿論雪菜だけでなく、ここにいる新入生全員がそうである。
(けどゆうき……大丈夫かな)
 こんな日にはいつも悪い意味で目立ってしまうゆうきが心配だった。

「ねぇ、見て。あの人……」
「何あれ。気味悪い……」
 周りがざわついている。その視線の先にいるのは、八神ゆうき。
 赤紫色の髪の毛、そして左目に黒い眼帯をつけたその少年は、無表情で、周りの視線をものともせず進んでいく。彼は慣れているのだ。雪菜はそんなゆうきを見るたび、胸を痛めていた。
 ゆうきは、変わってしまった。人との関わりを避けるようになった。昔はそんなことはなかった。いつもゆうきは母親と楽しげに笑っていた。よく二人で河原に行って、遊んだりもしたのだけれど。

(あの日、あんなことがなかったら……)

 ゆうきはまだ、笑えていたのだろうか。




* * *




 入学式終了後、教室でホームルームを行い、昼には解散した。ゆうきとは同じクラスになったが、話す機会は無かった。
何か力になりたかった。平気な振りをしていても、きっと辛いはずだから。たとえお節介でも、やっぱり放っておけなかった。
 雪菜が廊下でキョロキョロしていると、雪菜の友人である井川茜が話しかけてきた。先ほど雪菜と会話をしていた人物である。
「雪菜、一緒に帰ろう?」
「え、あっ……ごめん。私ちょっと用事あるから!」
 雪菜はそう言うと、急いで走っていった。そんな雪菜の背中を見つめながら、茜はため息をつく。

「はぁ……。また八神君のことか」




* * *




 校門を出て、雪菜は真っ直ぐ河原の方へと急いでいた。

(ゆうきがいつまでも学校にいるわけない………となると、あそこしかないよね)

 案の定、ゆうきは河原の桜の木の下で昼寝をしていた。赤紫の髪の毛が風に揺れている。間違いない。
「やっぱりここにいたんだ」
 雪菜はしゃがみ込んで、上からのぞき込んだ。うっすらとゆうきが目を開ける。
「……なんだ、お前か」
「お前か、って何よ。せっかく心配してやったのに」
「そんなの要らない」
 そう冷たく言い放つと、ゆうきはむくりと起き上がった。雪菜に背を向ける格好になる。
「……ごめん」
 ゆうきは、人に憐れまれたり同情されたりすることを何より嫌う。嫌われることよりもだ。分かっていた。誰よりもそのことを分かっていた。それでも、放っておけなかった。
 ゆうきは再び桜を見上げた。そして呟く。

「迷惑なんだよ」

 その様子は、どこか自分に言い聞かせているようで。
 雪菜はそんなゆうきの背中をじっと見ていたが、暫くするとゆっくりと立ち上がり、歩いていった。また何も出来なかったことを悔やみながら。




* * *




 その日の夜。風呂から上がり、ゆうきは洗面所にいた。バシャバシャと顔に水をかけ、ふと鏡に映った自分を見る。
そこには、明らかに異常である髪の毛と左目。

(気持ち悪い)

 右の瞳がこげ茶色なのに対し、右の瞳は血のように紅かった。そしてその紅い瞳には、いつも違和感がある。自分のものでない。見られている。そんな感覚。
 こんな姿でなければ、母さんは死なずに済んだのだろう。愛されたのだろう。
 ゆうきは両手を固く握り締め、鏡の中の自分を叩いた。




* * *




 そこは暗闇だった。ゆうきは一人、暗闇の中に立っていた。

(夢か?)

 その時、突然ゆうきの体が光りだした。そして、ゆうきの体から炎の塊が出てきた。
 何だろう。否、俺はこいつを知っている。
「えんこ?」
 今まで聞いたこともないような名なのだけれど、何となく懐かしく思った。
 その生物の名は炎狐。その名の通り、炎を身に纏っている。毛は赤紫色で、目は紅く光っていた。

―そう。私は炎狐。貴方の本当の母親。あの八神優という女とは違ってね―

「な、なんでそれを」

 確かに、ゆうきと母とは血の繋がった親子ではなかった。昔道端に捨てられていたのを拾ったと、母は言っていた。しかしこの怪物が実の母親だと言われ、誰が信じるだろうか。

―今は信じなくてもいい。けど、これだけは知っておいて―

 そこで一息つき、炎狐は続けた。

―まず、あなたは人間ではない―

 

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